dkrqr’s blog

僕がつくったものとやったこと考えたことの記録

僕の反出生主義

先日、生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) 森岡 正博 という本を図書館で予約した。 著者は「誕生肯定」の概念を提唱しているので反出生主義者の対極にありそうだが、(それ故に)目次などでは反出生に関して歴史的、体系的にまとめられているようだ。

「反出生主義」は僕の中にある(意識に上ってくる)思想のうち、おそらく唯一自分の中から出てきたものであり、かつ最も強いものでもあるので、本の1冊くらい読まないとなぁという思いが以前からあった。 ふと思い立って図書館に借りに行こうとKULINE*1 を調べてみると、京大にある2冊とも予約で埋まっているし、この本のタイトルの元ネタであろうベネターの本にも2件の予約が入っていた。 京大生、反出生主義好きすぎん? こうしてたまたま読むまでに時間ができてしまったので、wikipediatwitterくらいからしか知識を得ていない、僕の中の"無垢な"反出生主義を文字にしておこうと思う。 本を読んだ後にこれをもう一度読み返したり、書き直したりしたら面白いと思う。 *2

定義

まず、僕の中での「反出生主義」の定義というか範囲をきちんと定めておこうと思う。 以前、twitterでどこかの大学生が反出生でバズっていた時に、かなり人によって反出生主義という言葉の指し示す範囲が異なるように感じたためである。 僕の中にある反出生主義は、

  • 子を生むことは基本的に悪である
  • 自分が生まれてきたことに関してどう思っているかは関係ない
  • 既に生まれている人の誕生は否定しない(あえて肯定もしない)
  • 他人に子を生まないよう強制する思想ではない

という考え方である。

1つ目は反出生の根幹で、これから書く部分と重なるのでそちらに譲る。

2つ目、僕の考えでは、自分自身の生への満足感みたいなものは本当に関係ないので。 子を生むべきではないという思想は、自分の誕生を肯定できないことに端を発すると考える人が多いと思われる。 しかし、僕の考えは自分の子のことを考えた結果としての反出生であり、自分の不幸の責任を生みの親に押し付けようとすることは一切ないからである。 *3 僕自身は自分の誕生に対して(若干肯定よりではあるが)まだ肯定も否定もできておらず、その状態でもはっきりと誕生は悪だと考えている。

3つ目、僕にはまだ分からないので。2つ目と似ているけど、こちらは一般に既に人が誕生してしまったことに対してであるというのが違い。 *4

4つ目に関しては、○○主義というとそれを他人に押し付けがちなイメージがあり、僕自身も他人に考え方を押し付けかねないので自戒も込めてこうあるべきだと思っている。

2~4つ目ついては後述の、反出生の根源には人の幸せへの願いがあることも理由の1つである。

論理

僕が反出生主義、子を生むべきでないと考える論理を説明する。

はじめに、生まれてしまったすべての人間は幸せであるべき、より幸せになるべきである。 本当に。切に願っている。 この原則が以降の議論の大前提にある。 *5

「生まれた人間は幸せになるべき」という原則から、これから生まれる子についても同様に幸せになるべきだということが自然に導けるはず。

しかし、生まれたての子どもが自分自身で幸せになることはできない。 では誰が子を幸せにするのかというと、その子の親、僕の子なら僕自身であろう。 その子の親だけが子を育てるわけではないが、生むことを決断するのは親である。 よって子に対する責任の所在は親にあると考えられるだろう。

では、親はその子の幸せに完全に責任を持つことができるのか。 子にとって良いと思われる環境を用意したり経済的援助をしたりすることで、子が幸せであると感じる確率を高めることは可能だろう。 しかし、幸せであるかどうかは最終的には本人の感じ方次第である。 子を確実に幸せにする、すなわち子を幸せにする責任を取ることは不可能である。

このことは、はじめに示した「生まれた人間は幸せになるべき」という原則に反することになる。 この矛盾を解決するには子を生むことを否定するしかない。 *6 僕は自分の子をとても愛していて、どんな手段をつかってでも絶対に幸せになってほしいので子を生まない

さらに、出生は生まれる子から自身の生(誕生)を否定する権利を奪うことになる。 人が幸せでないと感じるなどして自身の誕生を否定したくなったとしても、完全に自身の生を否定することはできない。 自らの生を否定する手段として自殺がすぐに思いつくが、自殺するにはかなりのエネルギーが必要であるし、自殺をしても自分が生まれたという事実を消すことはできないので自らの誕生の完全な否定にはならない。 つまり、誕生を完全に否定することは誕生した瞬間に不可能になってしまう。 誕生するかどうかを選択する権利、自らの生を否定する権利を保障するためにも出生は否定されなければならない。

親の幸せとの関係

人の幸せを出発点として考えているから、子を生まないことで失われるかもしれない自分自身の幸せのことも考える必要があると思う。

子どもがいたら幸せだろうなと思うことはときどきある。 自分の子の成長を感じるさまざまな瞬間を見ること、子どもが喜ぶ姿を見ること、子どもを通してコミュニティが広がること、適当に考えてもいくつか出てくる。 多くの人が子を生んでいるのもそういう理由だろう。

しかし、おそらくそういった幸せのほとんどは別の手段でも得られると思う。 もし得られなくても、子が幸せになれない可能性を考えれば大したことが無いように思う。 同じ不幸でも自分で選択した結果であれば受け入れられるけれど、自分の子に選択権のない不幸を背負わせるのは耐え難い。

養子

反出生主義の立場で養子 *7 を取ることの是非は正直分からない。 生まれてしまっているので生を否定する権利の議論は成り立たないが、確実に幸せにできるのかという問題は生じる。 自分がある子を里子としたとき、里子に取らなかった場合より幸せにできるのかどうかが問題になるように思う。 生まれない場合と生まれる場合では比べられるけれど、これは2つの場合を比べられない。 何らかの方法で結論が出せればいいなと思う。

人口過剰・環境汚染

反出生主義のwikipedia の「反出生主義の主張例」にあったのでちょっと考えてみた。 考えてみたけど、問題の矮小化でしかないなと思った。 人が幸せに生きることに対して、人口過剰や環境汚染の問題のしょうもなさよ。 結果的にそういう問題の解決につながるとしても、そういうことを目的にするのは違う。

*1:京大の蔵書検索システム https://kuline.kulib.kyoto-u.ac.jp/

*2:と思って書き始めたけど詰めが甘すぎて多分恥ずかしくなるやつやなぁと思う

*3:こういう発想で短絡的に反出生みたいな感じの主張するのどうかと思っている

*4:wikipediaの概要の項で「誕生否定」をさらに細分化したうち“1-2.「人間が生まれてきたこと一般を否定する思想」”とされている方

*5:異論がある人がいそうだけど、僕が反出生である理由なので。あと異論は知りたいのでなんらかの方法で教えて欲しい。

*6:前節で「子を生むことは基本的に悪である」とした理由はここにある。確実に子を幸せにする方向でこの矛盾を解決することもできる。確実に子を幸せにできるなら生めばいいし、その方が健全だと思うのでやり方を知りたい。 ところで、仮に「子供に1億円かけたら確実に幸せになる」というのが共通認識としてあれば、「1億ないなら生むな」が自然に言われる気がするけど、「子供にいくらかけても確実には幸せにできない」だと「子どもは生むな」にならないね。

*7:当然自分たちのために誰かに生ませるのではなくて、里子を取るみたいな話。前者は発想が無かったけど、誰かに話した時に聞かれたので念のため